私の精神的<京都> *随時更新
(僕はいま非常にもやもやしている。そして僕は心のもやもやを言葉にしないと気持ちが悪い。だが同時に、まとまった文章を書くにあたって(読むにあたって?)僕は非常に息切れしやすい。そこで、試みにひとまず細切れにして断片だけを記してみて、後から若し気が向いたらまとめることにする。)
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僕はかつて、<東京>に吐き気を催していた。あの感情は何だったのだろう。
東京の近郊県に住んでいた僕は、さほど東京に行く機会もなしに、同地に対して想像上の悪印象を抱いていた、目の仇にしていたような記憶がある。たしか、僕にとって、東京という地は一義的に、「煌びやかでオシャレな」「拝金主義的な」「ビルと人でごちゃごちゃとした」「人々が働く」<東京>であって、それ以外の何物でもなかったのだろう。
勘の良い方ならお気づきかもしれない。それは<東京>に対する嫌悪と表裏一体だったのだろうが、僕は <京都>に対して熱烈な憧憬を抱いた。
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「京都」に憧れて来た人々は、少なからずそれに落胆する。この落胆に出会ったときの対応は、幾つかの形に類型化される。
①京都を「京都」に変える。
例:タテカン闘争や各種新興同好会
②京都を味わい、「京都」を超える。
例:日々の散歩、日常を楽しむこと、美味し料理を作り、食べ、人々と飲み交わす。
③「京都」と戯れ、「京都」を育てる。
例:森見登美彦氏の<京都>(記憶が正しければ、彼の本は「彼が送りたかった学生生活」であるとどこかで言っていたような気がする)。
④「京都」の喪失にうちのめされ続ける。
ー④' 京都でないものが、新たな「京都」となる。
例:僕の<京都>
(彼らの「京都」は僕の<京都>と必ずしも同じではなかろうから、ひとまず「京都」と記しておいた。思うに、ある種の人々が「京都」に憧れる様に、僕は<東京>を見てとるのだろう。)
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九鬼周造が看取した「Sehnsucht (≒憧憬)」に、僕は僕の<京都>を見てとると言ったら、あまりにも傲慢すぎるのだろうか?
Sehnsucht という語はドイツ民族が産んだ言葉であって、ドイツ民族とは有機的関係をもっている。
(『「いき」の構造』)
思うに、僕が<京都>に憧憬するとき、僕は自分の周囲を痩せた地としか見做さない。僕はどこか別の「南」を希求し続ける。
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